心臓外科手術の分野では、若手の医師が実際に手術を経験する機会は少ない。手術訓練を重ねて、医師の技術向上を図ることが課題になっている。手術技術を習得する早道は、数多くの手術を経験すること。しかし、訓練の機会は限られており、若手医師は現場で技術を磨きたくても磨けない。
ここに着目した若手工学研究者が、医師と協力して手術訓練ロボットを開発した。心臓外科手術の中でも、冠動脈バイパス手術は太さ2mmの血管を短時間に精密に吻合する高度な技術が要求される。開発された手術訓練ロボットは、この冠動脈バイパス手術の模擬訓練を日常的に行うことを可能にしたトレーニングロボットだ。
手術訓練ロボット「YOUCANヨウカン」「BEATビート」
手術訓練ロボットは、冠動脈モデルの「YOUCANヨウカン」と拍動装置「BEATビート」の2種類の装置からなる。ピクンピクン・・・と、一定の間隔で脈打つビートと呼ぶ拍動装置の上に心臓の血管に見立てたシリコンゴム製のヨウカンが置かれている。装置は心臓が動いたまま血管を手術するという難しい吻合感覚をリアルに再現したもの。
ビートは電流による発熱で形状記憶合金のワイヤを収縮させて動く仕組みで、拍動の振幅や速さを調節できるようになっており、心臓に近い動きの中で血管の縫合や訓練ができる。このビートの上に固定されたシリコンゴム(70mm×40mm×10mm)のヨウカンが上下に規則正しく動き、心臓のリアルな鼓動を実現している。
まるで芋ようかんそっくりな冠動脈モデルのヨウカンは、医師による感覚的評価とエンジニアの工学的試験に基づいて開発されたもの。血管は針糸で縫った時と限りなく同じ感触に。病態モデルのオーダーも可能で、血管の強度も用途に合わせてカスタマイズすることができる。
拍動装置の台は、医師が胸を開いた時の様子を表現したもの。よりリアルなものを再現するために、意見を聞いた医師の数は3000人を超える。
これまでは、ブタの解凍心臓を冠動脈バイパス手術の訓練に使っていたが、準備や後片付けなどの手間や感染の危険が懸念されていた。手術訓練のために心臓に見立ててつくられた従来の米製品は100万円相当するゴム製品で、トレーニングとしてあまり現実的ではない。空気で動作する人工心臓は動くたびに「プシュー、プシュー・・・」という音がしてリアリティに欠けると聞く。しかし、ヨウカンならば1個80ドルで4、5回繰り返し使用が可能。ビートは1台5000ドルと、決して高くないトレーニングコストといえる。
これまで使用されてきたブタの心臓と異なり、保管や廃棄時の手間もない。医師はセルフトレーニングによる反復訓練で基礎的な技術を習得し、拍動を含めた応用訓練でより本番に近い実践的な技術を磨くことができる。
冠動脈バイパス手術シーンを再現したヨウカンとビートは非常にシンプルなつくりで、見る医師によっては、脳外科医には"脳"に、整形外科医には"腕"に見えてくるという。心臓外科医以外にも訓練ロボットが待望されている。若手医師は現場で技術を磨きたくても磨けないのが実情だ。実際に臨床例のない医師が、ひたすらヨウカンで手術トレーニングを毎週行った結果、一年後に技術が格段にあがったというデータもあるという。技術向上の見込める日常的トレーニング環境の整備は必要不可欠。ヨウカン、ビートは何よりも時と場所を選ばず、好きな時に好きな場所で手軽に手術トレーニングができるのがウリだ。開発者は「できるだけ安く購入したい」と要求する医師らの声に応えようと現在も研究開発に注力している。
■冠動脈モデルYOUCANヨウカン/1個80ドル、拍動装置BEATビート/1台5000ドル。
※多少の価格変動あり。YOUCAN(標準仕様)は4、5回繰返し使用可能。
トレーニングには、明確に技術力を評価できる定量的指標があることが望ましい。これまでブタの心臓などでは個体差があるため、そもそも技術の評価があいまいで困難だった。しかし、同等の環境下で同一のモデルを吻合できるトレーニングならば手術技術の評価も可能になる。指導医の感覚による定性的評価に加え、工学的手法による数値評価を合わせた手技の指標を示すことができれば専門医制度にも応用がきくものになり得るだろう。
評価は吻合した部分に水を流し、その流れ具合を機械工学の分析方法によって数値化するもので定量的な解析データで検証していく。共通のプラットホームを使うことにより、評価結果のデータベース化が可能になる。多くの医師が同じモデルの血管を縫い、手技データとして蓄積して公開し合えば、その比較が容易になり医師の手術訓練のトレーニング環境は相当に整備されていくだろう。
海外でも注目の手術訓練ロボット―医工連携で事業化進む
この手術訓練ロボットの開発者は、早稲田大学大学院博士課程の朴栄光(パクヨンガン)氏。早稲田大学大学院の梅津光生教授(生体医療工学)のもとで研究し、冠動脈バイパス手術の模擬訓練を日常的に行える手術訓練ロボットの開発に成功した。朴氏は多くの外科医に手術トレーニングを行ってもらうために、株式会社イービーエムを立ち上げ、手術訓練ロボットのさらなる実用化を目指す。
朴氏がロボット開発に取り組むことになった契機は、大学院入学と同時に文部科学省の「岐阜・大垣地域ロボティック先端医療クラスタープロジェクト」に配属され、真に現場の役に立つ手術手技の評価訓練装置、すなわち患者ロボットの開発を任されたことによる。
手術訓練ロボットの開発で終わらせるだけでなく、事業化を決意した朴氏のプランは、06年3月に「第2回キャンパスベンチャーグランプリ全国大会」で文部科学大臣賞を受賞。7月に「第9回早稲田ベンチャーフォーラム」で最優秀賞を受賞し、同年8月に賞金を元手に資本金400万円で会社を設立し、東京都大田区の産学連携施設内にオフィスを構えた。
実物に近いリアルな感触で手軽に扱える訓練装置は海外からも注目され、起業後わずか2年で米国、韓国から受注する成果をあげている。米ピッツバーグ大学医学部と成約し、同大は北米市場の販売窓口になっており、韓国では高麗大学などへ納品済み。手術訓練ロボットの市場規模は、心臓血管外科のみで約20億円と予測している。今後は開発した冠動脈バイパス手術訓練装置の世界に向けた販売を視野に、さらなる改良を重ねて手術訓練ロボットの分野で国際スタンダードの構築を目指している。